生の延長線上にただ横たわる死
気付けば前回の更新から随分と間隔が空いてしまった。
このブログを読んでくれてる奇特な方がどれ程いるのか甚だ疑問だが、未見の君と私の為に今年は頑張って更新しようと思う。
漫画家兼イラストレーターのきくちゆうき氏がTwitter上で公開していた『100日後に死ぬワニ』が作品の内容と共に電通との噂等で話題になっている。それは主人公であるワニくんを実は作者の亡くなった友人を想って描いているという新事実、ラストの投稿後に始まった怒濤のプロモーション、その裏に電通との繋がり匂っていた等々があるだろう。が私は其処に余り関心を持っていない。
人の死を金儲けの道具にしているかは主観が混じるし、過去に過労死させてしまった電通が「生と死」をテーマにした作品を扱うなと主張する人もいるが、それなら映画業界やテレビ業界はどうなのだろうか?センセーショナルな話題にだけ食いついていないだろうかと疑問に思う。
少し話は変わる。黒澤明の作品で『生きる』という映画がある。病に冒され余命が幾許も無いと知った主人公が、それでも、いや、寧ろ知ったからこそ残りの人生を能動的に生きていく話なのだが『100日後に死ぬワニくん』を読んだ方達も生を前提に死を考えるのではなく、死を前提に生を考えられるようになったのではないだろうか。
死は生の延長線上にただ横たわっているだけなので意識をしすぎると身動きを取れなくなるが、意識する事で有意義な生を送れる場合もあるだろう。
勿論、そこに優劣をつけようなんて気はないが、ワニくんを読んでいると最後の日が分かっていたら彼は果たして同じ行動を取っただろうか。
余命幾許も無い人の物語は頻繁に取り上げられ、其処にはドラマチックな最後が待っているが、殆どの人はワニくんのラストで舞っていた桜のように何気なく生きて何気なく散っていく事だろう。
それはどこか日本的で美しいが同時に物哀しさを覚える。物哀しいからこそ美しさを感じるのかも知れないが。
そんな事を浮かべながら、自分がどう生きたいのかに就いて考える機会を与えてくれた事に感謝し、散るその日まで生きてみようと思う。
青ざめた世界と蜃気楼なテクスト
どんなに夢心地だろうと世界は一緒に酔ってはくれなくて窓から青ざめた顔を覗かせては現実へと手を引いて行く。
私は人の顔を覚えるのが苦手だ。
生まれ付きの恥ずかしがりもあって一緒に飲んでいるとメニューばかり見て中々、顔を見れないので尚更に覚えられずにいる。
だから就寝前や起床時に楽しかった思い出は残っているのに何処か寂しい気持ちがある。
けれど覚えている事がそれ程に大切な事なのかとも思う。
例えば私が過去にした経験によって生じた結果や感情は今も私の血となり肉となって何処かで私を形作っているだろう。
それはアルコールで脳が鈍化した、良く言えば少しだけ純粋になれた私と席を共にしてくれた人にも同じ事を思う。
経験は環境も作るから完全に同じとは言えないかも知れないが、感情は精細に分析出来なくともパステルカラーの儘に不意に感傷的にしてくれるし人生を詩的にしてくれる。
席を共にした人との思い出もテクスト化されて過去に取り残されたと思いながら、その実は体系だって私を支えてくれるし今際の際に思い出すんだろう。
そんな事を考えて寂しさを紛らわせても結局は恥ずかしがりの癖に寂しがりだからメニューと不仲になる勇気が欲しい。
小さな別れの儀式
あんなにも好きだった本を売っても僅かな小銭にしかならなくて、それでも握りしめた小銭で喉に引っかかった何かを流す為に缶ジュースを買うなんて経験は誰しもがあるんじゃないかと思う。
きっとジュースを上げるから本を手放しなさいと言われたら首を横に振るだろう。
でも誰かが貸して欲しいと言えばジュースなんて無くても貸すんだろう。例え返って来なくとも。
それは、お金が目的じゃなくて自分を構成してる要素を、視覚的に認識できる本を売る事によって新陳代謝をしたいと思ってるからだと思う。
人は臆病で変化を恐れる癖に変わらないと変われない自分に変わってしまう事を恐れて少しでも変われる方法を模索する。
好きな物を手放すのはいつだって辛いけど飲み干して凹んだ缶がリサイクルされてまた満たされるように、自分の中で空いた場所に何かを入れていきたいと願っているのかも知れない。
ミニマルな君にマキシマムな愛を
ミニマリストを語る方がこの頃は跋扈しているように感じる。
そもそもが、それぞれが必要な物に最小限の量で適応していくという考えなのだから色々な考えがあって良いと思うのだけど恋に恋するお年頃というかミニマリストに溺れるミニマリストというのは本質を見誤ってる気がしてならない。
私は、本当に自分に必要な物はなんなのか考えて足るを知るという禅に通じるような内省的な思考を追い求める人をミニマリストだと思っているが固定観念に凝り固まるのも危険だとは思う。
私は、人生をチューニングする事に生の安らぎを感じるから誰の為のミニマリストは息が上がりそうで苦しいのだけど他者とこの感覚を共有出来るのかは謎だ。
ミニマリストは一つの物に色々と機能が付いていて流用出来る物を好んでいる気がする。
私は一つの一つの物こそミニマルであって欲しい。人間関係でも君は君が出来る事をすれば良いと思うからだ。一つに特化した物は美しいし私の中では普遍的な価値観だったりする。
ミニマルな君に囲まれて丁寧に感謝する。
君が出来る事に感謝して出来ない私をみつめていたい。
結局はミニマルな物で浮き彫りにしていきたいんだと思う。
浮腫んだ脳味噌
死にたいから殺す
数日前の事だがバイキングを観ていたら新幹線無差別殺傷事件が扱われていた。
MCの坂上忍さんを基本的には好きなのだけれど、好きだからこそ気になると言うか少し悲しくなる時がある。
この事件は色々な視点で視る事ができると思う。安全対策は十分だったのか?犯人の精神的な問題だったり周囲のサポートはどうだったのか?...とか。
そして、私は間違ってるのかもしれないけど被害者よりも加害者の方に意識がいってしまう。
加害者をモンスターにしてしまえばただの悲劇になってしまう。それは少し前に発生した虐待死の事件についても同じ事を思う。
そんな姿勢はユダヤ人の虐殺をヒトラー個人のせいにするようでフェアじゃないと思う。
MCの彼は犯人について「誰でも良かったなら、なんで最後くらい他人じゃなくて自分の命を断つと言う選択肢を選ばなかったのか?」と言うような趣旨の事を言っていた。
私は、そんな意見が世界を埋め尽くしてるのかと思うと薄ら寒く感じた。
きっと加害者の彼は「死ぬなら迷惑かけずに死になさい」という環境で生きて来たんじゃ無いかと思う。
でも他人に思いを馳せれる人は余裕がある人なんだと思う。勿論、他人に思いを馳せれれば心に余裕も生まれるだろうが。
だから、彼にその事を言ってあげれる人がいなかった事が悲しい。
社会を憎むから殺すし、自分を受け入れられないから自分を今の状態にした社会を敵視するのだろう。そこに自殺を選ぶという選択肢はない。自殺を選択する心があるなら彼は事件を起こしてないだろうから。
だから迷惑をかけるとかじゃなくて、自分を愛する術を教えてあげれる人がいたら少しは違ったんじゃないかと思った。
『ハンニバル・ライジング』に就いて
久しぶりに『ハンニバル・ライジング』を観た。
シリーズの中では物語の構図がわかりやすく、疲れずに観れるから結構好きなんだけど小説と相違点が多くて引っかかった。
別に原作至上主義ではないのだけれど記憶の宮殿っていう割と美味しい所を削ぎ落としてるしこれで良いのかなって気がした。
でも作品として面白いし原作の雰囲気を映像化出来てるから普通に面白いのでまた観るだろうと思う。
複雑な物語も好きだけど、これぞ映画だって勝手に思う時があって、コナン・ドイルの『緋色の研究』や今回の作品がそうでストーリーを俯瞰して思い浮かべると一枚の絵みたいに感じる。